合気道の開祖の植芝盛平という人は?

合気道の開祖と呼ばれている人が、植芝盛平という人です。

身長156cmという小柄な体型でありながら、力士を投げ飛ばしたなどの多数の武勇伝があり、今の合気道を社会普及に務められたのは太平洋戦争後の老齢期とされています。

明治から昭和という激動の日本の歴史の中で、戦争にも影響を受けたことは容易に想像がつきます。

私の稽古していた養神館合気道塩田剛三館長は、植芝盛平の高弟で合気道を一般に広めるための一役を担った方で、開祖植芝盛平について時々話されていたことを、遠巻きに聞いたことがあります。

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植芝盛平翁の体つきは?

塩田剛三館長が話されていたことですが、植芝盛平翁の腹筋はシックスパックと呼ばれるような感じではなく、恵比寿様のようなお腹だったと聞いたことがあります。

ただ、館長が言われていたのは、ただふくよかなお腹というのではなく、内筋はしっかりしていて丹田に重心が重りのよう入った体だったということでした。

植芝盛平という人の体格は、史料によると身長156cm、体重75kgとされているので、身長の割には恰幅が良かったのだと思います。

十代後半に天神真楊流柔術、新陰流剣術を学ばれており、その成果での体つきであったと思われます。

一方で、20歳の時の徴兵検査では、身長が規定に満たず不合格となったこともあるらしいのです。

植芝盛平翁の合気道神社の建設に至るまでは?

植芝盛平という人が生きた時代、明治の日露戦争当時は、一度は規定身長に足りずに徴兵検査不合格になるものの、日露関係の悪化を受けた状態と、本人の鍛錬と嘆願によって再検査で合格し、陸軍に入隊しています。

その軍隊時代の行軍演習や銃剣術は目覚ましい活躍で、「兵隊の神様」と称されるほどで、上官の代理で教官を務めるほどの腕前であったらしいです。

その後も、さまざまな軍関係やその他の関係の上で、トラブルも多い人生のようだったことは、さまざまな資料から読み取れます。

合気道の現在の主流派とされる合気会は、昭和23年の植芝盛平65歳の時に「皇武会」が改称して文部省の認可を受けたもので、この時初めて正式に「合気道」となり植芝盛平が初代「道主」となります。

その時の道場となったのが、今でも現存している茨城県岩間にある合気神社です。

植芝盛平翁の合気道の誕生には、時代背景が大きな影響を受けています。

日露戦争、第二次世界大戦といった戦争による戦時統制により、合気道は大日本武徳会と皇武会が統合されたことによって誕生しています。

植芝盛平の武勇伝は?

合気道の生みの親である植芝盛平の生きた時代もあるのかもしれませんが、今では考えにくい武勇伝がさまざまに伝えられています。

憲兵隊の待ち伏せ襲撃を一人で返り討ちにしたとか、小柄な体格でありながら当時の力士の天龍を簡単に投げ飛ばしたとか、さまざまな武勇伝があります。

いずれにせよ、戦争における究極の実戦の場を体験した武術者である植芝盛平という人が、それを元にして合気道というものを生み出したのには、ある意味必然だったのかもしれません。

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