合気道の達人と言われる塩田剛三という人は、植芝盛平翁の高弟で、養神館合気道の創始者です。
昭和23年に皇武会が合気会と改称して文部省の認可を受けてから、合気道という名称を使用し初代道主となったのが開祖植芝盛平翁です。
その後、昭和29年の日本総合合気道大会において盛平王の高弟である塩田剛三が優勝して、合気道養神館道場を創設します。
本家本流の合気会よりも当身を多めにした技の構成になった流派といえ、合気会よりも実践を意識した流派と言えます。
養神館合気道館長である塩田剛三の武勇伝は?
塩田剛三という人については、さまざまな武勇伝がありますが、あまりに現実離れしたものでヤラセではという人も多くいます。
逆にいえば、あまりの達人の技ということで、ヤラセのように見えるともいえます。
例えば、自分に向かって発砲された銃弾を体さばきでかわしたとか、複数の暴漢を一人で制圧した等々、さまざまにあります。
実際に塩田剛三と手合わせした格闘家や武道家の人から、否定的な発言は少なく、達人とか超人という言葉での表現が多いと思います。
ロバート・ケネディ夫妻の前での演武では、塩田剛三の強さに疑義を持ったケネディの申し出からボディーガードと手合わせをして圧倒した逸話もあり、その際の映像も残っています。
道場を訪れたプロレスラーの前田日明、ボクシングのマイク・タイソン、空手家の金沢弘和、力士の舞の海などが手合わせをし、塩田剛三の技を評価しています。
手合わせをした格闘家たちが、塩田剛三の技について、素人目にはやらせに見えるほど達人の域のものであるとする批評をした人もいます。
塩田剛三の作り上げた合気道養神館とは?
塩田剛三は、合気道の理合について、植芝盛平翁が用いていた難解で抽象的な説明を、「中心力」「スピード」「タイミング」という言葉で、6種の基本動作と構えを作り上げています。
特に合気会とは違い、構えには細かな規定が定められています。
本家本流の合気会を、一般に広く知らしめるために、短期間での合気道の基本的な動きを身につけられるように構築されたといえます。
達人と呼ばれる塩田館長が、毎年恒例の演武会で、「実戦では当身が7分で投げ3分」という植芝盛平翁の教えを、よく言われていました。
解説演武の中では、基本的な技はもちろん投げ技、組み技、指一本で相手をついてみたり、後方からの攻撃に背中や肩をぶつけて飛ばすなどの多彩な技も披露されていました。
そして、解説演武の最後に必ず、「合気道の技を使わないようにすることが、合気道の極意で、それを身につけるために稽古しましょう」と締められていました。
合気道において「歩けば即武道」と表現されていたほど、実際の合気道の日常生活での有効活用の意義を説かれています。
養神館本部道場での塩田剛三館長は?
私が稽古していた道場は、養神館合気道の地方の支部で、個人的に年に数回の本部道場での稽古の際に、塩田館長の指導を受けたことがあります。
身長150センチくらいの小柄なおじいちゃんという見た目なのですが、近くによると、なんとも隙のない空気感を感じる方でした。
稽古の際には、型中心の稽古の中で、ちょっとした体の線の崩れを指摘されるだけで、かからなかった技が不思議とかかるようになりました。
達人の塩田館長が稽古中に言われたことで、記憶に残っているのは、「稽古で覚えた技は、道場を出たら忘れなさい」ということです。
合気道の技は覚えるものではなく、無意識で体が動くものが技となると解釈しています。